2015年08月25日

花火

晃ちゃん、今年も花火大会、いつもの川原であったよ。
この頃はなんだか忙しくなって、花火を見にでかけることもなくなってしまった。
遠くで花火の音を聞くだけ。
今年なんかは、夏風邪をこじらせてしまって、何にもする気にならなくてね。
テレビでどこかの花火大会を見ただけ。

晃ちゃんと一緒に見た花火は、今でも心に残っている。ひまわりの浴衣を着て、一生懸命おしゃれして。

それから、心が離れてしまって会わなくなった年も、花火の日には私を見つけてくれて、
「もう一度付き合ってくれよ。」と言われたっけ。
いつも沢山の仲間に囲まれている晃ちゃんだから、そんな告白も皆のいる前だったから、なんにも言えなくて、ちゃんと考えることも答えることもできなかったんだよ。
黙って行ってしまってごめんね。

晃ちゃんのことは、いつも他の誰よりも尊敬していたし、私にとっては特別だった。
自己顕示欲が強くて、気取りやの、甘えたの自分は大嫌いだった。
友達もいなくて、本当はとても淋しかったくせに、素直になれない自分をどうしていいかわからなかった。
そんな気持ちを救ってくれたのは晃ちゃんだった。

花火を見ると思い出すよ。晃ちゃんと過ごした夏を。
どこか遠くできっと、私のことを見守っていてくれるような気がしてる。

いつか、いつか晃ちゃんのお墓参りができたらと思う。

2005年11月12日

晃ちゃんが与えた私への多大なる影響   6

「佐恵子のことは信じているからな」晃ちゃんが私に一番よく言った言葉。高校3年生になり、いつのまにか友達も増えた。なぜか男友達が多く、少し心配だったのかもしれない。
けれど私にとって、彼は心から尊敬できる人と言う意味で特別な存在だった。
あの車の事故以来、私たちは前よりずっと親密になった、、、はずなのに、私は彼に頼って、依存しすぎてしまう自分が、だんだんいやになっていった。
晃ちゃんは私のわがままをいつも許してくれて、見守ってくれて、束縛とか、嫉妬とか、しない人だった。そんな彼に甘えすぎてしまう自分が嫌いだった。

「自分の好きな道に進んで、手ごたえのある生き方をしろよ。」彼の助言もあり、同級生のほとんどが大学へ進んだ中、私は親の反対を押して、専門学校へ進学した。
彼とはまた少しずつ離れていった。

「もう一度本気で、きちんと付き合わないか。」晃ちゃんからそういわれたとき、「私一緒にいると、自分がだめになりそうなんだ。頼りすぎて甘えすぎてしまうんだ。」と言ってしまった。もっと自立したかった。
ちょうど私が20才の頃だった。今思うと、随分自分勝手な返事だった。その時の彼の気持ちなんか少しも考えていなかった。

仕事を始めて、つらい時期があり電話したけどつながらなくて、彼の友達に聞くと「あいつ結婚したんだよ。母親がいなくて早く家庭がほしかったみたいだったから。」と言われた。
私は自分のことしか考えていなかった自分が恥ずかしかった。晃ちゃんはいつも私を待っていてくれると思い込んでいた。

私は最後まで晃ちゃんになにもしてあげられなかった。
どこまでも幼稚で、わがままで、自分中心だった。彼の寂しさ、私への想い、精一杯の優しさ、、、すべてをほんの少しも受け止められなくて、分かってあげられなかった。

いつかどこかで、偶然再会し「元気そうね。幸せそうね。」と言って笑ってあいさつしたかった。でももう晃ちゃんは いない。
私は彼からいろんなことを教えてもらった。親も先生も教えてくれなかった、生きるために大切なこと、生きることを楽しむこと。だからこの思い出は大切に心に刻んでおきたかった。

拓郎のコンサートへ行くと、どこかで晃ちゃんも歌っているような気がする。
       

2005年11月10日

晃ちゃんが与えた私への多大なる影響   5

晃ちゃんは初恋の人だったし、拓郎を教えてくれた人だったから、私はとても尊敬していたし、頼りにもしていた。けれど、いつの間にか私たちは恋人というよりは、兄妹のような関係になり、それぞれ別の人と付き合ったりしていた。そのくせ大事なことや、何か変わったことがあるとお互い呼び出したりした。
「今付き合っている人が、入院しているからお見舞いに行くんだ。その病院、アパートの近くだから帰りによってもいい?」と言って、就職して一人暮らししていた彼の部屋に行ったこともあった。トイレもお風呂も共同の、何もない殺風景な部屋には、晃ちゃんの淋しさがあふれているみたいに思えた。もう、ギターも音楽もなくて、それに、女の人の影もなかった。
私はその日お見舞いに行った彼とのこと、聞いてもらおうと思っていたんだけど、彼の部屋を見たら言えなくなってしまった。
彼の入れてくれたインスタントコーヒーを飲んで、私のために用意しておいてくれたらしいお菓子を食べ、高校卒業後の進路について話したような気がする。
中学生の頃、晃ちゃんの家に行っても、いつも友達がいて二人になれなかったのに、いざこうして彼の部屋で二人になってみると、なんだか気恥ずかしくて、ぎこちなくなってしまった。
「前に付き合っていた彼女とはどうなったの?」と聞いてみたかったけど、なんだか聞けないまま帰ってしまった。

「お前あいつのところへ戻れよ。あいつに遊んでもらえよ。今でも好きなんだろ。話してると感じるんだ、自分じゃあ気づいていないんだろうけど。」入院していた彼が、退院してから私に言った言葉。「そうなのかもしれない。」と思い始めると自分で自分がわからなくなった。

「佐恵子はいいよね、どうしようもなくなると、初恋の彼が出てきてひょいと助け舟を出してくれて。彼がいつも何とかしてくれる。」女友達にそんなこと言われたこともあった。


ある日晃ちゃんからの電話で「車買ったから、ドライブしよう。」と言ってきた。その日はどしゃ降りの雨だったけど、出かけていった。何の車だったか覚えていないけど、白いスポーツカーだったと思う。「なかなかいいだろ。」と言って雨の中、彼はどんどんスピードを上げていった。飛ぶように走る車の中で私はなんだかぼんやりしていた。友達に言われたことを考えていたのかもしれない。
「このまま走り続けたらどうにかなるかもしれない。」と思いながら、少しも怖くなかった。私が顔色を変えなかったからか、彼はさらに加速していった。急なカーブにさしかかったとき、目の前の景色が変わって、本当に車が宙を飛んでいた。
ガードレールにぶつかったのか、前輪が乗り越えたのか、わからなかったけど、目の前は川で、車のハンドルは壊れていて、私は彼の腕の中にいた。死んだかと思った。

幸い二人とも打ち身と、かすり傷だけですんだけど、車は廃車になった。
でもそのとき初めて彼に、ちゃんと抱かれた気がした。晃ちゃんの腕の中は、私が一番安らげる所に思えた。
「私は彼のそばにいよう、彼のところに戻ろう。私のこと本当に分かってくれるのは彼だし。」と思った。

拓郎の「戻ってきた恋人」を思い出して、ピンクの小花模様のスカートを自分で布を買ってきて作った。
晃ちゃんには「小花模様の長いスカート、、、」の意味は通じなくて、「なんでそんなのはいてるの」って言われてしまったけど。

2005年11月06日

晃ちゃんが与えた私への多大なる影響   4

中学の3年間は、晃ちゃんの影響でフォークソングばかり聴いていた。拓郎以外には、かぐや姫、井上陽水、イルカ、チェリッシュ、荒井由美、NSP、山崎ハコなどなど。チェリッシュの「白いギター」という曲が好きで、勉強を頑張って親に白いギターを買ってもらった。
わたしの周りの音楽好きの友だちは、ほとんどが井上陽水のファンで、ギター小僧たちはこぞってコピーしていた。放課後の教室では、ギターがじょうずな男の子を囲んで、「心もよう」「傘がない」とかをよく皆で歌った。拓郎は同級生にはあまり人気がなかった。晃ちゃんの友だちはみんな拓郎派だったけど。2級下というだけで、人気の度合いが違うことが面白かった。

陽水でギターにとりつかれた同級生の男の子達は、高校生になるとフォークギターをエレキギターに持ち替え、ロックにとりつかれていった。ビートルズ、ローリングストーンズ、レッドツェッペリン、クィーン、イーグルスなどが人気だった。私はロックはよく分からなかったけれど、ジョンレノンが好きで、「imagine」のアルバムの中の曲は全部かっこいいなと思ってよく聞いていた。ジョンと、ヨウコの関係にも興味があった。

町の公会堂では、大学生が主催する「99円コンサート」というのがあって、音楽好きの友達とよくでかけた。
近辺の大学生や、高校生が楽器を持って集まって、ロックからフォークまで色々な曲を演奏した。フォークソングのほとんどは、オリジナル曲だった。ロックバンドのお兄さんたちは、コピーが多かったかな。イーグルスの「ホテルカリフォルニア」はそのコンサートで聞いて初めて知った。ギターのソロが完璧だった。
特に好きなバンドや、お目当ての人がいたわけではないけれど、音楽が好きな人たちが集まるという場所の雰囲気に魅力を感じて、「99円コンサート」には毎回出かけた。ベルボトムのジーンズ、サングラス、ロンドンブーツ、ロングヘアー、、、。高校生の私には、大学生のバンドの人たちは間近で見ることのできる、拓郎に近い世界の人たちに思えた。

晃ちゃんは、就職して社会人になっていた。
  




2005年11月05日

晃ちゃんが与えた私への多大なる影響  3

中学校生活最後の文化祭、晃ちゃんは友だちと二人でギターを弾いて歌った。「五月雨 五月よ来るがーよい実らぬ恋もあるがーよい、、、、」題名はなんだったんだろう。それから「四季の歌」。晃ちゃんの好きな拓郎やかぐや姫ではなかったけれど、優しい歌声と楽しい話が素敵だった。終わってから文化祭のために作った楽譜をもらった。「晃ちゃんにとって、私はやっぱり特別なんだ。」と思えて、友だちに自慢して見せた。
文化祭が終わると晃ちゃんは、校区外のサッカーの強い高校へ入学するために、猛勉強をはじめた。私と会う時間も少なくなった。

私は晃ちゃんに会いたくて、彼と同じ塾に通ったり、家で母と言い争ったりすると、夜こっそり自転車を走らせて晃ちゃんの家の前まで行ったりした。彼の部屋の明かりを見て、「晃ちゃん頑張ってる。」と思い、それだけで帰ってきたりした。それだけで安らげた。
寂しいときはいつも、拓郎のテープを聞いた。「心の片隅に閉ざされてた優しさをあなたが思い出させてくれた〜」拓郎の歌声は、晃ちゃんとだぶって聞こえた。


「佐恵子と話していてもすぐに返ってくるものがないんだ。いつも少し気どっているし、なんかお嬢さんぽさが抜けなくて。もっと本当の自分を出せば良いのに。」高校生になった晃ちゃんから投げつけられた言葉。
校区外の高校に見事合格し、サッカー部では1年生でスタメンだった。何でも臆せずやってしまう彼のように私もなりたいと思っていた。けれど自分に自信がなく、自己嫌悪のかたまりみたいなその頃の私は、彼の前で無口になるばかり。

「まにあうかもしれない今なら 今の自分を捨てるのは今なんだ」 拓郎の歌が心にしみて、
「私も変われる。なにか、打ち込めるものを見つけて、変わりたい。」と思った。


その後私は地元の高校に入学し、文章を書くのが好きだったので、新聞部に入部した。
彼は部活動に明け暮れる日々だったけど、私が何か悩みを持ちかけたりすると、よく手紙を書いてくれた。
「私進学クラスに入れられたけど、進学する気ないの。」と書くと「それなら、普通のクラスにしてもらえばいいよ。高校生活、自分で楽しくしないとな。」と返事をくれて、担任の先生にそのことを言うと「入学試験の成績で分けているのに、そのようなことを言ってきた生徒は君が初めてだ。」と呆れ顔で言われた。それで新聞作りに打ち込めた。


その後、今までの優等生の先輩が作った新聞とは、明らかに方向性が違ってきた私たちの新聞には、先生方からクレームがつくようになり、校正の段階で大きく訂正されはじめた。「顧問を下ろすしかない。言論の自由を守ろう。」とみんなで話し合い、職員室に抗議に乗り込み「自由な記事を書かせてもらえないのなら、新聞部全員で辞めます。」と涙ながらの宣言。
顧問の先生を変えていただき、ますますクラブに打ち込んだ。新聞は発行と同時に完売した。自分に少し自信が持てた。

2005年11月03日

晃ちゃんが与えた私への多大なる影響   2

二人でよく歌った歌は「結婚しようよ」そして「いつか大人になったら絶対結婚しよう。」と、13歳と15歳の幼い約束をした。
私はギターを抱えてよく晃ちゃんの家に遊びに行った。彼は一生懸命教えてくれたけど少しもうまくならなかった。ほんとうは、彼と一緒にいられるだけで幸せだったから。何とか弾けるようになったのは「春の風が吹いていたら」という曲。拓郎とけいこさんが二人で歌っていた曲。
「もう帰らなくちゃ。」と私が言うと晃ちゃんは決まって拓郎の曲を歌ってくれた。「恋の歌」「せんこう花火」「静」「トランプ」「もうおかえり」etc もうお帰りって言ったら いまにも泣きそな君だった〜と彼が歌いだすと本当に泣きそうだった。
何度も晃ちゃんの家に行ったけど、友達の多い彼の家にはいつも誰かが遊びに来ていて、なかなか二人だけにはなれなかった。けれど、彼の友達は一人も同じタイプの人がいなくて、いつもどきどきさせられた。不良ぽいこわい感じの人もいれば、秀才っぽいまじめな人、がっちりした体育会系の人など、、、。いつも多くの友達に囲まれている彼がうらやましかった。
「私には、親友と呼べる人なんかいないんだ。」というと「俺はお前のこと、親友とも思っいるよ。」といってくれて、心の中の淋しさって言う氷みたいな塊が解けたみたいでうれしかった。
「男でも女でも、友達はたくさんいたほうがいいから、たくさん作れよ。友達になりたい人とはなるべく一緒にいる時間を持たないとだめだよ。待ってないで自分から近かづかないとな。」晃ちゃんに教えてもらうまで、友達の作り方も知らなかった。

中学生の二人にデートらしいデートなんかできなかったけれど、私の家の近くには、神社があって、春と秋にはお祭りがあり、道路を隔てた川原では8月になると花火大会もあった。そんなときはいつも人混みにまぎれて晃ちゃんと二人で出かけた。晃ちゃんは決まってリンゴ飴を買ってくれた。神社の境内に毎年やって来る見世物小屋や、お化け屋敷に二人で入るのが楽しみだった。そんなときだけ、晃ちゃんと手をつなぐことができた。
友達に会うと恥ずかしいので、少しお祭りを見ると二人で露店の出ている大通りを離れて、川原の土手に座っていろんな話しをした。家族のこと、学校のこと、取り留めのない私の話を何でもよく聞い
てくれた。ある時晃ちゃんに言われた言葉、「もっと広い心を持てよな。小さい事にこだわりすぎてると、大事なことが見えなくなるよ。」彼がとても大人に思えた。良い子になりたがる自分が恥ずかしかった。今でも時々思い出す、広い心で人と接することができれば、自分の気持ちも楽になった。

2005年10月30日

晃ちゃんが与えた私への多大なる影響

晃ちゃんがいなくなってから、夢のなかで何度も同じ風景に出会う。
岬のような場所に立って、私一人ぼんやりと海を見ている。風が強くて、髪の毛が顔にかかってうるさいけど、気持ちは晴々していて「やっとここまで来れた」と思っている。
でも目覚めるともうこの世に晃ちゃんはいないことが思い出されて、心のつっかえがなくなったような悲しみにまた襲われてしまう。


 私が中学生だった時、美術の時間に渡り廊下に座って、学校のそばの神社の大きな木を写生していた。そこに上級生の男の子がふらっとやってきて、「ここもうすこし、違う色、たとえばこれとか。一本の同じ木でも、いろいろな色があるから、よく見てみろよ。」と言って、少し葉っぱの色をかきたして、「じゃあ」と照れくさそうにかけていった。あんまりすばやくて、あっけにとられてしまった。フーと風に吹かれたみたいだった。
これが晃ちゃんとの出会い。彼が、私に拓郎を教えてくれた人。
 彼と親しく話すようになったある日「これ吉田拓郎という奴。良いから聞いてみて。」と
3本のカセットテープを渡された。
「オンステージ第2集」と「元気です」のアルバムがはいっていた。それまで歌謡曲しか知らなくて「野口五郎かわいい。」なんて友達と話すくらいだった私には、拓郎の曲は衝撃だった。
「静」「トランプ」「恋の歌」「春だったね」「リンゴ」「旅の宿」「まにあうかもしれない」ギターの音とともに、どれも心の奥深く入り込んで、私を虜にした。
毎日毎日テープを聴いて、いつの間にか彼よりも拓郎のファンになり、拓郎を歌う彼のことも好きになり、尊敬もした。
 それまでの私は、親や先生の言う事をよく聞く、お利口ないい子だっだ。
拓郎の歌は「もっと自由でいいんだよ。もっとおおらかに生きろよ。」と私に呼びかけているようだった。

 晃ちゃんはその頃、母親をがんで亡くしたばかりだったと、後で聞いた。けれど彼は私にそんなことを感じさせることもなく、ギターをひき、歌った。スポーツも、勉強も、遊びも、やりたいことは何でもやってしまう彼が私にはまぶしかった。




以前あいみやさんのページに書いた「ありふれた思い出」、もう一度自分のブログにまとめてみたくなりました。これが私の原点だから。大切な思い出だから。