2006年05月21日

ファミリー 12

恵子一家は、恵子の母の7回忌にそろって実家へ帰ってきた。
法事の翌日私はお参りに出かけ、彼女の家族に久しぶりに再会した。
高校生になった長男はもう恵子よりもずっと背が高くなり、「おばさん、お久しぶりです。」ときちんと挨拶してくれた。
ご主人の隆也さんは相変わらず温かみのある優しい笑顔で私を迎えてくれた。
「佐恵子さん、いつも恵子がお世話になって。あれから、恵子がとても元気になれたのはあなたがいつも心をかけてくださったおかげです。私は今日大阪へ帰らなければなりませんが、恵子はもう一日こちらにいますので二人でゆっくり過ごしてください。」と言ってくれた。
私はお参りをすませると、恵子を海沿いの温泉のあるホテルへ誘った。穏やかな瀬戸内海の見える露天風呂につかると、心まで緩められ解放されるような気持ちにさせられて、またお互いの打ち明け話がはじまるのだった。

「あれから7年も過ぎたなんて。過ぎてしまえば、あっと言う間だったね。つらいことも多かったけれど、よく乗り越えたよね。」
と言う私に、
「気がつけばお互い40代になったんだよね。私今ね近くのホテルでブライダルのお世話係の仕事を始めたの。着付の仕事に出かけたホテルで、やってみないかと言われて。まだ始めて3ヶ月なんだけど、親族の着付と当日の花嫁さんのお世話係なの。人から頼りにされたり、必要とされることがこんなに嬉しいことだとは思わなかった。緊張感のある毎日だと、病気のことも忘れていられるの。とてもよく眠れるようになったの。」
「そうか、恵子はいつまでも家庭の中だけで幸せを感じられる人かと思っていたけれど、少しずつ自分の世界を広げているんだね。隆也さんが心の広い人だから、うらやましいな。」
「優しくて大らかな人に見えるでしょ。でもね、そうでもないのよ。去年の暮れに結婚して始めての大喧嘩をしたんだから。」
「隆也さんも怒ったりすることがあるのね。」
「そう、結婚してあんなに怒った彼を見たのは始めてだった。
私、職場の人たちに誘われて、10人で食事に行ったの。
主人は「楽しんでおいで。」と言ってくれたからその後のカラオケも付き合って帰りが12時過ぎてしまったの。そしたらすごく機嫌悪くなっていて「なんで連絡もせんで、こんなに遅くまで遊ぶんや。」と言って怒っていたの。私少し酔っていたからか今まで思っていたことをつい言ってしまったの。「あなただって私に何も言わないで、他の人に会いに行っていたじゃないの。」って。
それから私達、3日くらいかけてこれまで思っていたことのすべてを話し合ったの。主人はどこかいつも、うつの私を気遣って遠慮していたから、優しすぎたから、本音でぶつかり合うことができなかったんだと思う。私はいつも心のどこかに、彼が亡くなったあの人のことをいつまでも忘れないでいるんだろうと不安だった。でもね、心をぶつけ合ったらやっとお互いの気持ちを本当に分かり合えたのよ。
主人はあの人、可奈子さんにできるだけのことをしたから、最期を看取ることができたから彼女に対する心残りは全くなく、もうお墓参りにも出かけることもないのだと言ってくれたの。そして、自分の知らない人たちと私がお酒を飲んだり、食事をしたりすることは本当は面白くないのだとも言っていた。なんだか主人のやきもちが私、少しうれしかった。いつも夫婦なのに私は彼に片思いしているような感じだったから、少しは愛されているのかなと思えたの。ただの独占欲かもしれないけど、それでもうれしかったのよ。私が一生懸命してきたことが、主人への気持ちが、伝わったような気持ちで。全てを吐き出すことは、とても怖いことでもあったけれど、分かり合えたことでまたこれから先も夫婦をしていけそうよ。」

「夫婦が空気のようなあたりまえの存在になるには、とても時間がかかるけれど、夫の本音や弱音を愛おしいと思える私は幸せと言えるのかな。所詮は他人の二人なら、お互いの世界を持ちながら、家庭という二人から始めた世界も大切にしていきたいな。時にはぶつかり合いながらね。」

恵子の笑顔には、少し自信のようなものを感じられ、女のたくましささえも見えたような気がした。

終わり
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2006年05月14日

ファミリー 11

恵子が山口へ墓参りに帰って来たのは退院してから1年が過ぎた頃だった。
「元気そうじゃない。」と言う私に、
「佐恵子がいてくれたからよ。ありがとう。でも病院とは縁が切れなくて、毎週通院しているのよ。今でも時々死にたくなるの。」
とまた、心配なことをちらりと言うのだった。
「ご主人は元気。」
「ええ、この頃は外泊もなくなって、やっと心も体も私のところへ帰ってきてくれたみたい。優しくて、子どもにもいいパパで、それなのにわけもなく不安になるの。やっぱり、この病気すっかり良くなることはないのかな。」

恵子には、小川可奈子さんのことは未だに知らせていない。
「ご主人からは、なにか聞いたの。」と言ってみた。
「いいえ。でも、1年半も定期的に外泊していたということは、浮気ではなくて、本気になりかけていたのかもしれない。それでもちゃんと戻ってきてくれたから、それでいいの。何も言い訳してほしくないし、本当のことを聞きたいとも思わない。聞くのが怖いのかもしれない。今分かっていることは、私には隆也さんが必要だということ。彼のいない人生は考えられないの。
もしかしたら、まだ隆也さんの心の中には残っているのかもしれない、あの人のことが、、、。」

「あの人、、、。 恵子何か知っているの。」

「実は、退院してから姑から少し話しを聞いたんだ。学生時代の女友達から手紙が来て、お見舞いに通っていたらしい、ということ。そして、その人が亡くなったということも。
義母は「隆也は優しい子だから、許してやってね、恵子さんのことはいつもとても大切に思っているのよ。」と言って慰めてくれたけど、私に打ち明けてくれなかったことが悲しかった。それだけ、その人は彼にとって特別な人だったのでしょうね。つらくなって、隆也さんにその人のこと聞いてみようかとも思ったけれど、でももういいの戻ってきてくれたから、それでいいの。彼と別れることは考えられないもの。

退院する時「寂しい思いをさせて、恵子をこんなに苦しめてごめんな。これからは、もっと家族みんなで幸せになろうな。」と言ってくれたから。
そして主人の胸にしがみついて思い切り泣けたの。今までこれほど私の気持ちをぶつけたことはなかった。いつも、良い妻であろうと意識しすぎて、無理していたのかな。これからは少しわがままになろうかと思うの。」

「そうだったの。私、恵子をお見舞いに行った時ご主人からその人のことを打ち明けられたのよ。学生時代になにかと助けられた人だったようね。そして突然彼女は事情があって、姿を消したらしいね。きちんと別れていなかったから、心が残っていたのでしょう。」

「そう、佐恵子は知っていたのね。青春時代の大切な思い出の人だったのでしょう。悔しいけれど、亡くなった人には勝てそうもないから、彼を追いつめてもしようがないから、私はこれからまた私達の思い出をたくさん作って、我が家の歴史を作るつもり。

それからこの前ね、近所の人の着物の着付をしてあげたらとても喜ばれたの。せっかく、専門学校で勉強したのだからこれから少しずつ家庭以外の自分の世界も広げて行きたいと思い始めているの。子どもの友だちの七五三の着付も頼まれているのよ。」

私と恵子は和装専門学校で共に学んだ仲だった。「自分の世界を広げて行きたいとい」いう話しになって、やっと恵子に笑顔が見えた。
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2006年04月29日

ファミリー  10

「可奈子は快活で、高校生の頃から目立つ存在でした。
すらりとした背格好で、手も足も長く、体操部で部長もしていました。しなやかで柔軟な体、かわいらしい大きな目元、明るい笑顔が途切れた時にふと見せる寂しそうな横顔。
そんなすべてが男子の中では憧れの的でもありました。そして、その憧れの的を独り占めしてしまった私には、心のどこかに優越感のような気持ちがあったことも確かです。」

「学生時代の気持ちに戻ってしまったのですね。」と私が言うと、
「忘れかけていた可奈子との記憶が、次々に蘇ってきて、、、。小首をかしげて私を覗き込むくせ、何か考え事をする時は唇を親指の爪でなぞること。そんなしぐさをしながら可奈子は私に何か言いたそうな目をしていました。今思えば、自分の父親の借金のことなどを打ち明けようとしていたのかもしれません。私は何も気付かないふりをして自分の楽しみばかりを追いかけていました。
可奈子は泣き言や、ぐちを言わない女でした。母親と幼い頃に別れたせいだったのでしょうか、人に甘えたり、頼ったりすることが苦手でした。周りの人に気配りすることで、自分の存在価値を確かめているようなところがありました。
それでも、私と一緒に寝るときはいつも、私の腕にすがるようにして眠っていました。そんな彼女の心の奥の寂しさを知りながら、私は知らん顔して暮らしていました。
彼女が突然いなくなったときも、何人かの友だちへ聞いてみただけで必死になって探したり、追いかけようとしたりしませんでした。二十歳の私の恋愛ごっこ、同棲ごっこだったのです。」

「その罪滅ぼしのつもりで、何度もお見舞いに行かれてたのですか。」と聞いてみた。
「そんな気持ちもありました。けれど、可奈子の父親からあと1年の命と医者から宣告されていると聞いたこと、そして何度か彼女に会っているうちに見舞っている私の方が、いつの間にか可奈子に元気付けられていたからだと思います。最期まで、生きる希望を失わず、病気に立ち向かっていた彼女の姿を見るたびに励まされたのです。
「もう一度人を愛したい。もう一度、あと一日でいいから隆也と暮らしたい。」と言う可奈子の最期を看取ってやろうと決心したのです。」

「甘えたり、頼ったりしないで頑張って生きてきた可奈子さんが、死を意識した時、とても素直になれたのかもしれませんね。可奈子さんの最期は安らかだったのですか。」と聞く私に、
「全身に転移してしまった病魔の痛みを最大に抑えてもらい、私の手にほっぺたをつけて静に息をひきとりました。余命1年と言われてから、何度か家へ帰ることもできる時期もあり、一年半生きることができました。
可奈子は乳房を失っても、最期まで女でした。私は恵子という妻がいながら、わがままを通してしまいました。」

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2006年04月01日

ファミリー  9

「この手紙をはじめに読んだ時は、処分してしまおうと思ったんです。私には今の家族が大切だし、小川加奈子という女性のことは私の中ではもう過去の思い出になっていたので。しかし、2回3回と繰り返し読んでいくうちに、彼女に会わなければ、いや会いたいという気持ちに変わってきてしまったのです。」

「恵子は、母親と二人の暮らしが長かったから、今の生活を本当に大事にしていたでしょう。」と私が言うと
「恵子の気持ちは痛いほど感じていたのですが、私の今が幸せであるからこそ小川加奈子が不憫に思えて、、、。

15年前の私は、彼女に随分助けられていました。高校3年の2学期に、体育の授業中に肩を脱臼してしまい手術しなければならなくなった時、「休み中のノートはまかして、早く元気になって。」と励ましてくれたのは彼女でした。私は1ヶ月の入院と聞いて、大学受験をなかば諦めかけていました。けれど彼女の笑顔を見たらファイトが湧いてきて、受験勉強を続けることができたのです。
大学生になってから、風邪をひいて熱を出した私を看病しにきてくれ、そのころから半同棲のような生活が始まりました。いつの間にか彼女に身の回りのことをしてもらう事が当然のようになり、自分はスポーツやサークルで忙しく、でも楽しい学生生活を送っていたのです。彼女の想いをどれだけ受け止めていたのか、ただその優しさを利用していただけだったのかもしれません。
彼女が突然いなくなったとき、自分勝手な私に愛想をつかしたのではないのかと思っていました。」と話してくれた。

「それで、小川加奈子さんに会われたんですね。」
「一度だけ会って、15年前の詫びをしたかったし、見舞ってやりたかったのです。
北九州の病院を探して、出かけました。
私を見て彼女は「まさか来てくれるとは思わなかった。」と言って驚いていました。
昔のぽちゃっとした丸顔の面影は消え、げっそりとやつれた彼女の顔を見ると、なぜか涙がこみあげてきて、見舞いに行った私の方が
「大丈夫だから。私もうたくさん泣いて開き直っているんだから。一日々を大切に、感謝して過ごすことにしたのよ。生きていれば、今日みたいに思いがけず嬉しい日もあるから。」と励まされてしまいました。

彼女は大学を辞めて、借金を抱えた父親と夜逃げ同然で北九州へ行き、父親と二人で懸命に働いたということでした。3年後に職場の後輩と恋愛結婚したのだけれど、1年半で離婚してしまったんだと話してくれました。子どももできなかったし、それからは、ずっと一人でやってきたということでした。
病院へは父親が時々来てくれているけれど、心配ばかりかけるからせめて笑顔で迎えるように、この頃は甘えないようにがんばっているとも言っていました。
「乳がんのときは、大騒ぎして泣いたりわめいたりしたけれど、今度は悲劇の主人公みたいになるのだけは避けたかった。それでもこれで私の生涯も終わりかと思ったら、隆也さんとの思い出だけが輝いた季節だったように思えて、あんな手紙を書いてしまったの。書くだけで辞めておこうと思ったのに、読んでもらうだけならいいんじゃないかと思えてきて。ごめんね。」と言って弱々しく微笑んだのです。

帰り際に彼女が差し出した手を握りしめた時、二人で過ごした時間が思い出され、思わずその痩せたからだを抱きしめてしまいました。その時はじめて彼女は、今までこらえていたものを吐き出すように、声を殺して泣きまた。隣のベッドとは、カーテン一枚で仕切られているだけでしたから。
「よくがんばったね。」と言って私は彼女の背中をさすってやりました。
なつかしい彼女の香りがして、病院を出てから少しずつ思い出してしまったのです、15年前の加奈子を。」
posted by 佐恵子 at 21:32| Comment(2) | TrackBack(0) | ファミリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月04日

ファミリー   8

「私の話が真実だと、佐恵子さんに分かっていただくためには、この手紙を読んでいただくのが一番だと思い、持って来ました。読んでいただけますか。」白い封筒には青いインクで、小川加奈子と宛名が書いてあった。
「あなたに来たお手紙を私なんかが読んでいいのでしょうか。大切な思い出の方なのでしょう。」と私が言うと
「佐恵子さんには、読んでいただきたいのです。それに、手紙の差出人は、もうこの世にはおりません。」

 
 隆也様、突然こんなお手紙を出してしまうことを許してください。
若かった時のあなたとの楽しい思い出だけで、充分なはずなのに。優しくしてくださったあなたの前から急にいなくなった私のことなど、忘れられているだろうに。病院のベットの上で暮らしている私は、残された時間を自分のためだけに過ごしたくなったのです。ただ読んでいただけるだけでいいのです。
 あなたはきっと、結婚もして幸せに暮らしておられると勝手に思い込んでいます。そうであって欲しいから。
 あの頃、父の印刷会社が倒産してしまい、父はお酒におぼれる毎日でした。私が4歳のとき、離婚していたので私達は親一人、子一人の二人っきりの家族でした。男手一つで私を育ててくれた父を見捨てることはできず、多額の借金を抱えた父と一緒に、私は大学を辞めて夜逃げ同然で北九州へ向かいました。
隆也さんにだけは本当のことを話したかった。でも、もう一度会ってしまったらきっと別れられなくなると思いました。私達は一緒に暮らすことを考え始めていたときでしたから。

高校2年生の夏休み、仲間とキャンプへ行ってあなたと出会った。夜の海で二人で遠くまで泳いだ。遠浅の暗い海で初めて口づけをした。あの日からずっと隆也さんのことが好きでした。そして今でも、あの頃の輝くような思い出のなかで私は生きています。それだけが今の私を支えています。

 
 乳房を片方切除しました、2年前に。そして今肺への転移が見つかり、3日後に手術の予定です。
こんなこと、あなたにはなんの関係もないことなのに、本当にごめんなさい。
父の借金もなんとか返済の目処がつき、やっと人並みな生活が送れるようになったというのに、、、。
もう、誰も愛せない、誰にも愛されることもない私。残された時間がどれくらいなのかわからないけれど、一人病院のベッドで思い出されるのは、あなたとの青春の日々ばかり。死への恐怖と、生の恐怖、孤独に耐えられなくなるのです。
「22歳の別れ」二人でよく歌いましたね。あなたには遠い々思い出のはず。
「あなたはあなたのままで 変わらずにいてください そのままで」

自分勝手に隆也さんに手紙を書いたから、頑張って手術受けられそうです。
本当にごめんなさい。そして、ありがとう。

posted by 佐恵子 at 14:18| Comment(9) | TrackBack(0) | ファミリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月25日

ファミリー   7

大阪にある総合病院の精神科病棟の一室で、恵子はぼんやりとうつろな目をして、横たわっていた。
「恵子、心配したよ。具合はどう。」と呼びかけると、
「頭がぼやけてる。  佐恵子、来てくれたのね。」とゆっくりと答えてくれた。
布団から差し出した恵子の手は、白く、冷たく、骨と皮だけになってしまって、握り返す力も弱々しかった。
「恵子、心が風邪をひいたのね。ゆっくり休めばまた元気になれるよ。」
「うん。今は、薬で頭がぼやけていて、何も考えられない。」と言う。
もうすぐお雛様。私はお菓子屋で見つけた、ひなあられの入ったお雛様を恵子のベッドの傍へ置いた。
「かわいいでしょ。桜餅も買ってきたのよ。食べてね。」
「うん。うん。」恵子は少し微笑んで、お雛様を見ていた。
「明かりをつけましょぼんぼりに お花を上げましょ桃の花 5人囃子の笛太鼓 今日は楽しいひな祭り、、、」
私が小さな声で歌うと、恵子もか細い声で歌った。
歌いながら恵子の切れ長の目からすうーと涙が一筋流れていた。そんな彼女がいじらしくて、私はもう一度その冷たい手を握りしめた。

恵子の主人とはその日の夕方、病院の近くの喫茶店で待ち合わせていた。彼女がどんなに苦しんでいたのかを伝えたいと思った。

「佐恵子さん、わざわざお見舞いに来ていただいてありがとう。」そう言うと彼は、深々と頭を下げた。
「恵子はあなたに会えることをとても楽しみにしていました。義母の葬儀の時も本当にお世話になりました。あなたのような親友がいて、恵子は幸せ者です。」
「幸せ者、でしょうか。うつ病になった恵子が、、、。彼女が、あなたのことでどれだけ苦しんでいたか分かっておられますか。」
病院での恵子のうつろなまなざしが頭にやきついて、思わず強い口調になってしまった。
「今日は、佐恵子さんにお話しなければと思って来ました。私は恵子に2年間隠していたことがあります。」
「やはり、浮気なさっていたのね。」つい、気持ちが高ぶって、はっきりと言った。
「浮気、と言われれば、そうなのかもしれません。どちらにしても、恵子に隠し事をして不安や不信を抱かせてしまい、追いつめてしまったことは確かな事ですから。いつか恵子にも話さなければと思ってはいたのですが、家庭を生きがいのように大切にしている彼女を見ると、やはり黙っているべきかなとも思われて。私の話、聞いていただけますか。」
「ええ、恵子のかわりに聞かせていただきます。本当は、ご夫婦で話し合うべきなのだろうけど、今の恵子には無理だから。」
「私も佐恵子さんに聞いていただけると、胸のつかえが少し楽になるような気がします。」

「恵子と結婚して6年目の冬、私の実家へ、学生時代に親しく付き合っていた女性から手紙が届きました。彼女は高校から大学2年頃までの恋人でした。」

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2006年02月12日

ファミリー   6

「佐恵子、、、。」恵子は、涙声で電話してきた。
「どうしたの。なにかあったの。」
「母が、倒れて、くも膜下出血で、昨日手術したけど、だめだった。亡くなったの、、、。」   
それだけ、やっと言うと声を殺してすすり泣いた。
「恵子、今山口の病院なの。すぐに行くから、しっかりして、お母さんのそばについていてあげるのよ。」
私も、それだけ言うのが精一杯だった。
我が家から病院まで一時間、車を飛ばして駆けつけてみると、恵子は夜の誰もいない外来の待合室で、一人ぼんやりと立ち尽くしていた。
「恵子、大変だったね。」と私が駆け寄ると、「佐恵子、、、、私一人になってしまった。一人ぼっちになっちゃった。」
と言いながら、私にすがりついてわあわあと号泣した。
「恵子には恵子の家族があるじゃない。一人じゃないよ。あっご主人は。連絡してるんでしょ。」
「それが、昨日からいつもの泊まりで、連絡がつかなかったの。さっき、やっと家へ帰って来たみたいで、今新幹線の中だと思う。あの人は、わからないの、あの人の本当の家はよそなのよ。」

お通夜から、葬儀まで、私は親族のじゃまにならないように気を配りながら、なるべく恵子のそばにいるようにした。
恵子の主人は、てきぱきと動きまわって、私には頼もしく見えた。けれど、悲しみに打ちひしがれる恵子への気遣いはあまり感じられず
「佐恵子さん、恵子の身内は少ないから、できればそばにいてやって下さい。」と言い、恵子への言葉は少なかった。

葬儀の後、恵子は子ども3人と2週間ぐらい実家へとどまった。
「母の遺骨の前だと、なぜかとても心が落ち着いて、夜もよく眠れるのよ。」と言っていた。
しかし、大阪へ帰ってからは体調を崩し、不眠、不安、倦怠感、吐き気などの症状がつぎつぎと表れ、家事もままならないようだった。
「心療内科とかを受診してみなさいよ。そして、一人でがまんしないでご主人へ打ち明けなさい。」とつい強い口調で私が言うと、
「もう、夫婦のことだから、指図しないで。」と、電話を切られてしまった。

それから2ヵ月後、「佐恵子さん、恵子は入院しました。」と、恵子の主人から、電話で告げられた。

posted by 佐恵子 at 12:48| Comment(2) | TrackBack(0) | ファミリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月30日

ファミリー   5

恵子は夫への不信感を子育てに没頭することで、打ち消していたのかもしれない。
5歳になった次男のアトピー性皮膚炎は、なかなか良くならなかったので、2週間おきの通院、風呂上りに塗る2種類のステロイド剤、卵、麦を使わない食事。毎日の食べ物の記録はかかせなかったし、他の二人に分け隔てなく接することにも神経を使っていた。
「下の二人が幼稚園に行っているとき、2年生になった長男を膝に座らせて、
 「お兄ちゃん、いつもがまんばかりさせてごめんね。」って、言ったりするのよ。」
とつらそうに話した。

恵子の夫の毎週の外泊は、いつの間にかあたりまえになってしまったようだけれど、休日は3人の子どもと共に過ごす時間を大切にして、公園や、川遊び、虫取り、海水浴、など自然に触れ合うことを教えてくれていたようだった。
夏休みに恵子の家族が山口の実家へ帰省したとき、私の家族と一緒に海辺のログハウスを借りて、3日間過ごしたことがあった。恵子の夫は瀬戸内海の遠浅の穏やかな海が気に入ったようで、子ども達と本当に楽しそうに遊んで、我が家の二人の子ども達もすっかり彼になついてしまった。
「むじゃきで、少年のように遊べるところが、ご主人のかっこよさね。」と私が言うと
「私の前では、そんなでもないのよ。でも、優しさは昔と変わらないから、このままでいいんだ。」と、夕暮れの海を眺めながら恵子はつぶやいた。
「あんなに子煩悩で、家族を大切にしている人だから、もし恵子が心配しているようなことがあったとしても、きっとまた恵子の元へ帰ってくるよ。」
「そうだといいけど。そう、信じたいけど。」と、頼りない返事だった。
「この頃はちゃんと寝られてるの。」と私が聞くと
「軽い安定剤もらってるの。でも、毎日飲んでいるわけじゃないから、大丈夫よ。眠れない時だけだから。」
「ご主人はそのこと知っているの。」
「うん、知ってる。「あんまり頑張りすぎるな。」って心配してくれた。」
「そうか、自分が原因だなんて思ってないのね。「あなたがよそに泊まるとき、不安で眠れなくなるのよ。」と言ってみなさいよ。」
「いつか、二人で向き合って話したいとは思っているんだけど、毎日一緒に生活しているのになかなか切り出せなくて。でも、この夏の間にきっと話してみるから。」
「本当に、一つ屋根の下で同じものを食べ、一緒にテレビを見たり、子育てしたりしていても、心の中で考えていることの全てを分かり合うことはできないものね。」
「だから、その日の優しさや、思いやりある言葉、それを信じたいの。目の前の瞬間々が、彼の真実だと思いたいの。」
posted by 佐恵子 at 22:00| Comment(4) | TrackBack(0) | ファミリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月22日

ファミリー   4

恵子の話によれば、彼女の夫は浮気しているらしい。
初めて外泊した日、連絡が途絶えてとても心配したという。明け方電話があり
「飲みすぎて、同僚のアパートに泊まった。ごめんな。」と言ってきた。
これまで仕事で遅くなることは多かったけれど、連絡もなく外泊することはなかった。
その日の夜、彼が優しく恵子を抱きしめたので、「やっぱり浮気したんだ。」と恵子は確信したという。
その後、仕事の接待で帰れそうもない、同僚のアパートで飲んでるから、早朝の会議があるから、、、などさまざまな理由で10日にいちどの割合で、どこかへ泊まるようになったとのこと。
「なんの証拠もないけど、ただの私の勘なの。」と恵子は言う。
「遅くなってもいいから、帰ってきてね、心細いから。それから、浮気しないでね。」って
言ってしまいなさいよ。」と私が言うと
「そうね、何でも許してしまいそうになる私も良くないのよね。頭の中でぐるぐる、いろん
な考えが渦巻いて、それでも確かめるのは怖くって。この頃、眠れなくなって、、、。」
恵子が夫を追いつめることで、大切な家庭に亀裂が入ることを恐れていることはよく分かっていた。それで彼女は、何も言えなかったのだろう。しかし、不眠の日が続き恵子自身が追いつめられて行くことが私はとても気がかりだった。

もしも、恵子の夫が本当に浮気をしていたとしたら、原因はなんなのだろうか。
いつも真っ直ぐに夫だけを見ているような、控えめで心優しい恵子。平凡の素晴らしさを身をもって感じていて、寛容で思いやりがあり、妻としては最高だと思うのに。
私は毒舌だとよく彼女に言われたけど、恵子は人がいやがるようなことは決して言わない。人をきずつけるようなことも。陽だまりのような彼女になんの不満、不足があったのだろうか。

「10日に一度の泊まりが、この頃は一週間に一度になってきたのよ。」
しばらくぶりに電話した私に、恵子は小さな声で告げた。
posted by 佐恵子 at 13:12| Comment(4) | TrackBack(0) | ファミリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月21日

ファミリー   3

恵子との3年ぶりの再会は、なつかしく、楽しくて、あっという間の一日だった。
「毎年どこかで会おうよ。」
「そうね、次は家族ぐるみも楽しいかも。」
そんな会話の後、「じゃあまたね。」と、それぞれの家族のもとへ急いだ。

翌年私達は二人とも身ごもり、二児の母になった。さらに翌々年、恵子は三人目を出産した。
「もう、毎日戦争みたいよ。男の子の年子って、ほんと大変。下の子は夜泣きがひどくて、真ん中は、やきもちやきで。一人が風邪ひくと、順番にほかの子にも移ってしまうし。」
「家なんか、二人でも手を焼いてるのに、恵子よくやるね。」
子どもが昼寝している貴重な時間は、長電話のおしゃべりに費やされた。
「しばらくは、また専業主婦で子育てね。」と私が少し残念そうに言うと、
「でも子どもはかわいいから。同じおなかから生まれたのに一人ひとり違っていて、面白いし、家族5人が並んで寝てると、つくづく幸せかみしめてしまうのよ。」と、やんわりと言うのだった。

次に電話をしたとき、なんだか恵子の声がいつもと違っていた。
子どもが水疱瘡にかかってかゆがって大変だった。といういつもどうりの、とりとめのない会話の後、
「恵子、なんか他に変わったことあったの。ご主人は元気。」と聞いてみた。
「ねえ、佐恵子のだんなは佐恵子にぐちることある。」と聞く。
「そうね、大学を卒業して、なんとか就職して1年もたたないうちに結婚したから、仕事のぐちは毎日のように聞かされたよ。「もうだめだ、辞めたい。」って、何度言ったことか。でもどうして、そんなこと聞くの。」
「最近のうちの人、なんだか変なの。もともと口数の少ない人だったけど、子どもが寝てしまうと私には何も話してくれないの。帰りが遅いのはいつものことなんだけど、夕食の時、私と子どものその日あったことを聞いて、自分のことも少しは話してくれていたのに、この頃はそれがないのよ。ぐちらなくなったというか、心を開かなくなったというか。優しいということに変わりはないんだけど。なんだか少し心配なの。」
「恵子のだんなさんは、5つ年上だから、大人なのよ。お疲れなだけじゃない。でも、よそにぐちる人ができてたらいやね。仕事のストレスで、心もお疲れなのかも。そっとしておいてあげたら。」
「そうね、安らげる家庭にしたいけど、ちび達がいるからそうもいかなくて。いつもざわついていて、散らかっていて。片付けても々、散らかるのよね。」
「恵子、きれい過ぎる家はかえって落ち着かないものよ、適当に手抜きしないと自分がつらくなるよ。良い奥さんで、良いママ過ぎると自分が無くなってしまうと思わない。私は近所の友だちと子連れで遊んだりもするのよ。お誕生会、クリスマス会、お花見会、おひなさま、こどもの日、、、いろんなイベントを考えて、どこかの家へ集まるの。子どもも楽しいし、大人もおしゃべりできて、息抜きできるから。
去年の夏は、4家族でキャンプもしたんだよ。親のほうが楽しんだかも。」
「佐恵子は昔から、イベント好きだったね。周りに友だちも多くていいね。私ももっと、子連れで外へ出かけて行かないとだめね。未だに大阪になじめなくて。」
「恵子なら、きっと良い友だちができるよ。恵子と話すと癒されるもの。でも、恵子を癒してくれる人は、やっぱりご主人かな。」


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2006年01月15日

ファミリー  2

倉敷市にある美観地区は、川沿いの柳が風に揺れ、白壁の建物が続き、雰囲気のある喫茶店や、みやげ物や、備前焼の店、それに美術館もあり、女同士でそぞろ歩くには格好の場所だった。お目当ての「大原美術館」に入り、有名なエル・グレコの「受胎告知」の前でその神秘性と迫力に息を呑み、時間を忘れて佇んでいた。
「佐恵子、この絵に一目ぼれね。」と恵子に言われるまで、我を忘れて引き込まれていた。
私の美術館好きは、この絵画との出会いから始まったようだ。この場所になら一日中いても飽きない自信がある。自分では何も描けないけれど。
恵子は彫刻や立体作品の方に興味があるようで、そちらを丁寧に見ていた。
「大原美術館」の隣には、「エル・グレコ」という喫茶店があった。明治の和モダンという感じのお店で、私達は足を休めた。
「ねえ、学生の頃はお互いつらい恋をしてたよね。相手の人のこと好きになり過ぎて面倒見すぎて嫌われた。面倒見が良すぎるところはお互いよく似ていたね。好きになり過ぎて追いかけ過ぎると嫌われると分かっているのに、どうしようもなかった。でも、今は恵子愛されていて幸せそうね。恵子のご主人は、恵子のことかわいくて仕方ないっていう感じでしょ。」
「そうかな。まあそうかもしれない。けれど今でも私、主人のこと色々してあげるのが好きなのよ。パリッとしたワイシャツに、折り目のついたハンカチを毎日持たせるのが、うれしくて。ネクタイも結んであげるんだから。」
「良い奥さんだこと。そういうことに幸せを感じられる恵子だから、かわいいのよね。私はだめだな。主人にもっと自立してほしいと思ってしまう。「自分のことくらい自分でしなさい。」って言いはしないけどなんとなく態度に出てしまうから、かわいくないのよね。」
「でも佐恵子のご主人は、そんな強気でちょっと男勝りなあなたのことが好きなんじゃない。昔の彼にふられた時は、どうなることかと心配したけれど、良い人にめぐり会えてよかったね。」
「独占欲が強いことだけがちょっとね。でも子どもが好きな優しいパパだし、私のわがままも聞き入れてくれるし彼といると、つっぱらない素の私でいられるから楽なんだ。」
「私は、家族ができたことが一番うれしい。主人は営業の仕事をしているから、いつも帰りは遅くてほとんど母子家庭状態だけど、待てる人がいるだけで幸せ。」
お互のろけあっただけだったけど、楽しいおしゃべりはいつまでもつづいた。

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2006年01月13日

ファミリー

年賀状には毎年「いつか会いたいね。」と書いていた、学生時代の親友恵子。
結婚して大阪へ行ってしまってから、お互い出産や子育てに追われ、時々電話で話すくらいでなかなかゆっくり会うこともなかった。
お互いの子どもが幼稚園へ上がった頃、「子どもを預けて二人でどこかへ行こう。」ということになって、大阪と山口の中間の岡山で会おうと約束した。

恵子と私は、専門学校で知り合った。恵子は私より一つ年上で、それまではバスガイドをしていた。一年で方向転換した彼女は、アルバイトをしながら自力で学校に通っていた。親掛かりで、夢ばかりが先行する私に比べ、彼女は地道に努力する大切さを知っていた。
実技の授業で、新しいことを教わると大抵私の方が呑み込みが良いのに、試験の頃にはいつの間にか恵子の方が上手くなっていた。「私は、佐恵子みたいに器用じゃないから。」そう言いながら休み時間もよく一人で練習していた。クラスの中では、目立たないおとなしい方だったけど、さりげない優しさや、気配りができる彼女は、同性から頼りにされる存在だった。
私は、恵子のことを姉のように慕っていたから、恵子が結婚して大阪へ行ってしまうときは、涙が出てしかたなかった。
彼女の結婚式以来の再会で、7年の月日が過ぎていた。

「佐恵子、久しぶり。ママになっても変わってないね。」
「恵子も、まだ独身でいけるよ。」
岡山駅のホームでの嬉しい再会に私達は、肩をたたきあった。
恵子の柔らかい笑顔は学生の頃のままで、私は妹の気分に引き戻され、昔のように一方的に近況をしゃべりまくっていた。
「子どもが幼稚園に通うようになって、少し手が離れたら近くに住んでいる友だちが「たまには遊びに行こうよ。」って誘うんだけど、主人は私一人で夜出かけたりすることを絶対に許してくれないのよ。たまには私だってストレス解消したいのに。
独身のときは、親に指図されて、結婚したら主人に束縛されて、、、。
まだ本格的に仕事に復帰するわけにはいかないし、なんだか子育てと家事ばかりしていると、社会から隔離されているみたいで、視野が狭くなって、卑屈になってしまうの。恵子はそんなことない。」
岡山の美観地区へ向かいながら、それまでのうっぷんを晴らすかのようにしゃべりつづける私を恵子は優しく受け止めてくれた。
「母になってもなかなか大人になりきれていないな。愛する家族がいることを感謝して、平凡な日々に幸せを感じなさい。私なんか、3年間子どもに恵まれなくて周りから色々言われて随分つらかったんだから。主人や子どもという愛情をかける対象がいて、今はすごく気持ちが安定してる。」
父親を幼い頃に亡くし、母親と二人の生活が長かった恵子にとっては今が一番幸せなのかもしれない。
派手なつくりではないけれど、色白で、切れ長の目元と、ぷっくりとした小さめな唇の古風な顔立ちの彼女の横顔は、以前よりもずっとゆとりのある色気が漂っていて、思わず見とれてしまうのだった。
posted by 佐恵子 at 23:54| Comment(2) | TrackBack(0) | ファミリー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする